第二の人生を平和活動に捧げる

~川妻二郎氏(東京米山友愛ロータリークラブ会員)とのインタビュー

Kawatsuma原爆で家族や親せきを亡くし、戦後に広島で事業人として一途に働いてきた川妻二郎さん。事業を引退し、現在は東京暮らし。バンクーバーでの平和会議から帰国した翌日のインタビューだったにもかかわらず、身を乗り出し、生き生きとお話しする姿は、とても91歳とは思えません。思わず「お元気の秘訣は?」とお聞きすると、「第二の人生で生まれ変わったから」と冗談っぽく語ります。東京に上京して以来、会員平均年齢が30代だった東京米山友愛ロータリークラブに入会し、若い会員たちと和やかに歓談する姿が印象的です。

『The Rotarian』誌の今年1月号(『ロータリーの友』誌2月号)には、川妻さんの原爆体験を記した記事が掲載されました。そんな川妻さんに、広島での事業人しての人生、そして東京での平和活動家としての第二の人生にいたった経緯についてお話を伺いました。

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戦後の混乱の中で

終戦時に私は大学生でしたが、当時の日本は大混乱の状態です。戦争から帰ってくる人や、帰ってきても辞めてしまう人がいるので、会社が本格的に採用を始めたのは終戦から3年ぐらい経ってからでした。

私は帝人に入社してまず東京勤務、そして三原工場、岩国の研究所など、サラリーマンとしてあちこち回りました。帝人に25年勤めたある日、父から電話があり、「帝人に勤め続けるなら、今やっているビルメンテナンス業をたたむ」と言われ、「何月何日までに(家業を継ぐかどうか)決断してほしい」と突きつけられました。姉は原爆で亡くなり、兄は特攻隊の出撃の日に終戦を迎えたものの、当時日本で流行していた結核で亡くなっていましたから、ただ一人残った子として親孝行しなければと、帝人を辞めて広島に戻りました。それと同時にビルメンテナンス業の会社を設立し、そこから事業を始めました。

ロータリーに入会し 業界を育てた広島時代

広島で落ち着いて事業をしようというとき、父親の薦めで広島南ロータリークラブに入会しました。父はロータリアンではありませんでしたが、友だちにロータリー会員がいたのです。

立派な志をもって入会したわけではありませんが、クラブにいると、事業をやっている人がどんどん入ってくる。それを見ていて、広島の地に会社を根づかせるには、人を知り、仕事を知る必要があると思い、ロータリーにとどまりました。

まずはビルメンテナンス業という事業を固めたいと考えましたが、そのためには業界そのものを整理しなければならない。業界を育てるには、業者だけでなく、お得意さんでもある役所の指導がなければならない。そこをスタート地点として、業界づくりに熱心に取り組みました。業界に入ってきた若い人も入れた委員会をつくることで、根っこで業界を育て、同時に自分の会社も育てたわけです。結局43年間、ビルメンテナンスの仕事に携わりました。

事業人としての人生を整理し 平和活動の第二の人生をスタート

田中作次さんが国際ロータリー会長になった2013年、広島の平和フォーラムの委員長を任されました。それを機に、その後2~3年間、いろんなことを考えました。ビルメンテナンス業という小さな村にいて、それだけで広島に住んでいて満足できるのか、と。

私は原爆の被災者であるけれど、幸いやけどもありませんでしたし、就職して地盤を固めるのが先だと思い、大学時代も、会社を立ち上げた後も、ほとんど原爆のことを話しませんでした。原爆の話をしようと思ったのは、そろそろ人生の最後が来た、これからやるべきことは何かと考えたからです。

ロータリーは民間団体ですが、民間の力で平和に取り組むことがとても大事だと、だんだん気づきました。家族や親せきは被爆して、亡くなった人も多い。そのことを考えると、この兵器があっていいのか、と本格的に考え始めたのです。広島は確かに原爆が落ちた場所なので意義はあるけれど、大都市ではありませんし、何をやるにしても連帯しようという人がそう簡単に集まるわけではありません。

自分も88歳になり、もう広島での事業人としての第一の人生を終わりにしよう。もっと大きなレベルで動くには、やはり東京でなければだめだ、と思いました。平和問題に取り組むために、心機一転して生まれ変わり、今までやってきたサラリーマン生活のレベルじゃなくて、もうちょっと格上げされたレベルで、自分を励ましながらがんばりたいと感じたのです。

亡くなった親せきの足取りをたどる

東京に来てからは、ぱっと切り替えました。まずは原爆について勉強することにしました。原爆で亡くなったたくさんの親せきをなぐさめるという意味もありました。

原爆についてどこかで話すこともあると思い、そのために、原爆で亡くなった人の「亡くなり方」を調べることにしました。何万という大勢の人が群がって亡くなりましたから、一人ひとりの死に方を特定するのはとても難しい。特定できるのは、自分の身近な家族とか親せきだけです。朝何時にうちを出て、誰と会ってどんな話をして、そして原爆で死んでいったという具体的な足取りを調べるのです。何十万人について一律にこうだとは言えない。だから、特定の人を選び、浮かび上がらせることが原爆の真実を伝える大事な要素だと思ったんです。そのために、自分の親せきがあの日の朝、どこに買い物にいったとか、そういうことを調べる取り組みをしてきました。

2015年10月に上京し、2016年にはオンタリオでの平和会議に出席して、被爆樹木を植樹したり、原爆の話をしたりしました。その後も毎年、カリフォルニア、アトランタ、バンクーバーなどの平和会議に出席しています。

Kawatsuma Toronto

6月に開催されたロータリー国際大会(トロント)で、被爆樹木の植樹活動をする川妻さんがイアン・ライズリー会長によって紹介されました。(写真提供:スティーブ吉田)

(執筆担当:時山)

【関連記事】
>> 「原爆から生き残る」(川妻さんの原爆体験に関する記事。『ロータリーの友』誌2018年2月号より。英語版はこちら
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第二の人生を平和活動に捧げる」への1件のフィードバック

  1. 甲府南ロータリークラブです。8月6日被爆樹木イチョウの植樹5周年記念例会を地元の人や植樹場所の隣の保育園の園児達と一緒に、平和都市宣言甲府市の市長の参加を得て開催しました。川妻パストガバナーの思いを次世代につなげていきます。寄稿 立川 茂

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